「中国で逮捕されていた友人との奇跡の再会」

◆6月17日(土)村西とおる トーク&人生相談
玉袋筋太郎さまの経営するお店・スナック玉ちゃん(赤坂)にて開催!
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◆「全裸監督~村西とおる伝」第39回 講談社ノンフィクション賞候補作に!
http://www.kodansha.co.jp/upload/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/20170605nonfictionkoho2.pdf

 

 

加山雄三さまは団塊の世代にとっては「永遠の若大将」、憧れの人です。

今年80歳となられた今でも元気ハツラツとして舞台に立たれています。

80歳の誕生日を迎えたこの春には、5000人のファンを前に2時間半、休みなく歌い続ける熱唱で、観客の心を釘付けにしたのでございました。

80歳を超えても今尚衰えを知らず、3年前には孫のような齢の離れた青年たちと新たにロックバンドも結成されておられます。

ただ単に歌手や俳優としてではなく、作曲家としても知られています。

これまで作曲してきた曲は535曲、うち270曲がレコード化されているのです。

日本の芸能界に「若大将」の一時代を築いた加山雄三さまですが、最初からスターを目指しての芸能界デビューではありませんでした。

逆に父親の上原謙さまが一世を風靡しながら、その後に鳴かず飛ばずとなっていく姿を見て、自分はとてもこんな芸能の世界はつとまらない、と一線を画していたほどでした。

しかし父親譲りの美形の顔立ちに目をつけた東宝のスタッフに口説かれて「一度だけ」の約束で映画出演をしたのでした。

欲しかったヨットを手に入れる資金稼ぎのつもりであったのです。

が、一度だけ、の約束だった映画出演作品がヒットしたために、二度目の出演のオファーが来ました。

これが正真正銘の最後、という約束で出演した映画の題名が「日本一の若大将」でした。

日本一、と名前をつけたら、もうその次はないだろうと考えていましたら、すぐ三度目の映画主演のオファーが舞い込みました。

日本一以上のものはない筈だから、とその映画の台本の題名を見ると「ハワイの若大将」と書かれてあったのです。

そうしてズルズルとヒット映画の勢いに押されて映画スターの道を歩むことになった加山雄三さまなのでした。

しかし、少し人気が出てきたと聞いても加山雄三さまは驕ることはありませんでした。

会社が大金をかけて宣伝をしてくれたお陰で売れただけで、少しも自分の実力だとは思わなかったのです。

物干し竿の先に祭り上げられているだけだ、と自分を突き放して見ていました。

自分がどれほどの人気者になっているのかを実感しないままの生活を送っていた加山雄三さまは、自分の人気の凄さを体験する出来事に遭遇します。

普段自分が乗っていた電車の車両が急に乗客で混みはじめたのです。

満員の車両に辟易して、他の車両に移ると、今まで空いていた車両がまた急に満員になるのでした。

注がれる乗客の熱い視線を感じて、自分の人気がただものではなくなっていることを初めて感じた「若大将」なのです。

「加山雄三」という芸名は本名ではありません。

おばあちゃんが占い師に10万円払ってつけてくれた名前です。

愛用のヨットの名前の「光進丸」も作曲家としての名前の「弾厚作」の名前も、おばあちゃんが10万円を占い師に払い、授かってきた名前でした。

若大将シリーズの映画が次々と大ヒットを飛ばし、俳優のみならず映画の中で歌った、自らが作曲した歌もヒット曲となり、「若大将・加山雄三」は国民的スターとなったのでした。

が、好事魔多し、とはよく言ったものでございます。

1970年、父親と一緒に経営していた茅ヶ崎のリゾートホテルやスキー場の経営に失敗し、23億円の借金を背負うことになりました。

47年前の23億円といえば、今日のお金に換算すると100億円ほどとなるでしょうか。

いずれにせよ、いかに人気者とはいえ個人の俳優や歌手一人の立場で背負うには莫大すぎる金額でした。

倒産し、無一文となって住む家をなくした加山雄三さまは着の身着のままで女房ドノの実家に転がりこみ隠遁生活を送ることとなったのです。

苦しかったのは、貧しさのあまり、食べる物にも事欠いたことでした。

女房ドノと生卵1個を2つに分けてインスタントラーメンに入れ、空腹を満たす生活が続きました。

そんなその日暮らしの生活のさ中にあって、女房ドノは、なけなしのお金をはたいて中古のピアノをプレゼントしてくれたのです。

あなたはこれがなければ駄目でしょう、との優しい女房ドノの言葉に、思わず目頭を熱くした若大将でした。

この中古のピアノに向かい、数多くの曲を作曲しました。その中から「僕の妹に」「海・その愛」といった名曲が誕生しています。

そうした、明日をも知れぬ困窮した生活を続けながら、一方においては債権者と会い、お詫び行脚を重ねました。

頭を床に擦りつけて土下座をして謝ったこともあります。

債権者の中にはそんな若大将を容赦することなく蹴飛ばした人間もいました。

しかし、若大将は債権者から怒鳴られ足蹴にされることがあっても、決して相手を恨むことはありませんでした。

俺にはまだ生きていく揚力がある、と相手が見込んでくれているから厳しくあたってくれているのだ、と反対に感謝する心を持ったといいます。

こうした感謝をする気持ちでいることだけを相手に伝えることが、自分の役割だと考えたのです。

人のせいにしてはいけない、すべては自分がまいた種で起きていること、俺が悪いんだ、俺の責任だ、との結論を出していました。

若大将は天国から地獄へと真っ逆さまに堕ちた日々を送る中、自分にこう言い聞かせたといいます。

どん底を味わうためにこの命が与えられたのだ、この苦しみをどう乗り越えるか、そのために頭と体力をいかに使うかで自分のこれからが決まる。このことは人生にとって大事なことだ、との諦観を持ったのです。

加山雄三さまはこの借金地獄の日々を生きて、クセのように、人間は「ありがとう」と何度でも言えるようにならなければ駄目だ、との生き方をすることを学んだのです。

また、若大将は人生の「三”かん”王」を目指しました。

何事にも「”かん”動(感動)」し、「”かん”謝(感謝)」を忘れず、「”かん”心(関心)」を持って生きる、の「三”かん”王」です。

これから先の人生で何が起きようとも、社会がどう変化しようとも、この「三”かん”王」を忘れずにいれば、ゆるぎなく力強い人生を生き抜くことができる、との信念を持って、今尚、生涯「ニッポンの若大将」として活躍する加山雄三さまでございます。

 

 

京都・祇園でのお座敷遊びは男であれば、一度は行ってみたい「魅惑のベール」に包まれた「謎の世界」でございます。

「一見さんお断り」のしきたりの向こうにどんな世界があるのか、チャンスがあれば覗いてみたい、との疑惑にかられるのは日本男児であれば誰しものことでございましょう。

手前どもは20数年前、京都のKBSテレビでレギュラー番組を持ち、MCを務めていたことがございます。

京都の名所旧跡のあちらこちらを訪ねてご紹介する、といったコーナーがございましたが、京都の祇園の中に…

この続きは「まぐまぐ!」でお読みください...
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