「力強く旅立ち逝った友の話」

宇宙企画、英知出版の天才オーナーの山崎紀雄氏が逝きました。

死因は確かではありませんが、氏は大腸癌を患っていました。

おそらくはその病が元で逝かれたのではないかと推察します。

丸山ワクチンで闘病していたといいますが、遂に力尽きたのでした。

山崎氏とはかれこれ40年近いお付き合いでした。彼のことを少しお話させてください。

氏は日本のエロス史に燦然と輝く功績を残した男でした。

手前どもと同じ学年の団塊の世代です。

氏とは、氏がグリーン企画の代表を辞めて神田草艶の出版社を設立した頃よりのエロ事師仲間です。

グリーン企画は高田馬場にありました。

当時のビニ本業界では、グリーン企画は最大手のひとつに数えられる出版社でした。

グリーン企画は後に白夜書房、コアマガジン、と発展していきます。

山崎氏はグリーン企画の草創期にオーナーの森下氏に乞われてその代表を務めていました。

その頃のビニ本出版社の代表は、いつ警察にしょっ引かれるか分からないような合法と非合法のスレスレの、ビニ本という名の写真集を販売する企業の「責任者」でした。

山崎氏は逮捕要員の雇われ社長の危い立場でしたが、どうせお縄頂戴になるなら、自分で納得できる本を世に出して勝負しようと一念発起し、神田神保町に「神田草艶書林」なるビニ本出版社を設立したのです。

その頃、手前どもも北海道に50店舗近くのビニ本店を展開し、全国に「九大神田書店」をはじめとする160店舗近いビニ本店グループを率いていました。

160店舗のグループチェーンにビニ本を卸し、埼玉県川口市にはドイツ製の4色輪転機と製本工場を構え、山崎氏と同じく神田神保町にワールド・フォトという出版社の事務所を構えていました。

出版社を名乗っていましたが、やっていることは合法スレスレのビニ本の製作と全国のルートへの販売業務でした。

当時は日本全国がビニ本ブームで、雨後の筍のように次から次へとビニ本店が開業し、出版と卸しの商売は大繁盛となりました。

取り扱い商品は自社製作のものだけでは間に合わず、他の出版社の商品も多く取り扱うようになり、そんな取引き業者の中に、山崎社長が経営する神田草艶書林もあったのです。

山崎社長の神田草艶書林が出版するビニ本は、他のビニ本とは一線を引いた、スグレモノでした。

”きわどく見えればいいだろう”といった粗製乱造のビニ本業界にあって、山崎社長の神田草艶書林の本だけは、写真印刷の仕上がりが他のビニ本と比べて一段も二段も上の美しいものでした。

山崎社長はその自社のビニ本を自分で得意先に納品して回りました。

数百冊単位のビニ本を、額に汗を浮かべながら、手前どもの事務所に運びこむ姿は、中小企業の経営者の鏡でした。

「どうですか、今度のウチの写真集の出来上がり具合は」と陶然としてビニ本のページをめくる山崎氏を見て、この男は商売というよりモノを作る仕事が本当に好きなのだと一目置いたものです。

山崎氏のビニ本の仕上がりが格段に良かった理由は、製版にありました。

ビニ本で儲けた大金をはたいて、山崎氏は大手の印刷会社の優秀な製版技術者を引き抜き、徹底して写真製版の技術を磨かせたのです。

その結果、日本を代表する大手の印刷会社さえ舌を巻くような美しい写真印刷の世界を獲得しました。

その技術はその後、山崎氏が経営する英知出版に引き継がれ、雑誌「べっぴん」「デラべっぴん」の大ヒットとなりました。

ビニ本ブームは衰えを知らずに拡大していきました。

歌舞伎町だけでも30店舗近いビニ本店が開業し、朝から店の前には行列ができて、押すな押すなの大盛況となったのです。

が、商売が繁盛すると同時にビニ本の中身の方も段々と過激になっていきました。

ブームの最初の頃は、パンティの上から恥毛らしきものがこんもりと盛り上がっているだけで、顧客は興奮して買っていきましたが、次第に慣れていき、次は恥毛らしき形状の存在そのものをあからさまにしやスケスケパンティでなければご満足いただけなくなったのです。

スケスケパンティが一巡しますと、今度はパンティから恥毛が1、2本はみ出ているものが要求されるようになりました。

はじめは、「オバケのQちゃん」のように、毛が…

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